多くのありがとうと共に
動物や植物たちはそれぞれに、人間をはるかに超える能力を持っていると思います。
嗅覚や身体能力や視力などの点でも、人はそのままでは到底敵わないのですが、人には発達した「脳」があり、それに依って生みだされる機械や武器等によってこの世を操っています。
人が困らない様に、ある種の動物の増加や減少を見つけてそれを調節している中で、生態系の適度を保つために、ある動物たちは人間の迷惑になり、「駆除」の対象となります。
直接「駆除」しなくてはならない方々に対しては、一人の人間のとしてねぎらいの言葉も必要なのかもしれません。
山で大きな熊に何度も出会う時、それは人の命の危険を意味するので、その熊を人から遠ざけるための処置をしなくてはならないため、「駆除」もその範疇です。
例えばその熊が母熊だった場合、何処かに子供たちがいるなら、母熊が「駆除」される時、子供たちは食を絶たれるかも知れません。
人は動物に対して、何らかの哀しみを与えているわけです。
それでも「駆除」しなくては危険であり、私としても家族や友人が危機に直面することを、とても恐れています。
動物を殺す人と、殺してはいないけれど人間が危機に陥る時、「駆除」も仕方ないと考える人は、同じ罪を背負う事になると思います。
私たち人間は美味しいお肉の料理のため、スーパーマーケットから肉を購入します。
購入した人はもちろん殺してはいないけれど、それを希望することで、同じ罪を負う事になります。
採食主義なら良いのかと言えば、それだって綺麗に咲いている花や、木が一生懸命に付けた実をもぎ取って頬張るかも知れません。
そんな時は他の命を頂いている事になります。
四足二足の動物の肉は食べないで精進をするときでも、植物は食のテーブルに在るはずです。
人は四足二足のものに、より高度な感覚を見出すことはありますが、植物はそれよりも高度な感覚を持つとは見做さない方々も多いかと思います。
しかしながら、我々一般の人間が知らないだけで、植物や虫たちは恐ろしく高度な感覚を持っているのかも知れません。
いずれにしても私たちが生きる上で、他の命を頂かなくては生きて行けないのです。
動物や人間以外の生物を供養する時、塔婆の裏に「如是畜生発菩提心 にょぜちくしょうほつぼだいしん」と書きます。
これは畜生界のものが菩提心を起こすように祈念を込めて書かれているのです。
人とそれ以外の生物の大きな違いは、「発菩提心」、他を供養する心が在るか否かです。
「それは殺すよりしかたのない事なのだ」、また「それはそうするより仕方なかったのだ」と言う事はよく理解できます。
それでも人としてこの世にある時、時折静かな晴れた日でも、お茶を飲みながらでも良いです。
誰でもが、今自分が在るのは他の生き物の命を頂いているお陰なのだと思いやって、また心からの感謝を捧げる「時」があっても良いかと思います。
人は誰でも色々な他人のお陰で、また他の生き物のお陰で、命をつなぐことが出来ています。
そのお陰で人は成長し、やがていつの日かこの世を去ります。
今まで取り入れられた多くの命の分も鑑みてみれば、生き方もまた変化してゆくかも知れません。
たくさんの「ありがとう」をリュックに詰め込んで、この世を去る途上で神様にお会いしたなら、「私は、私の生きた途上で、こんなにたくさんの感謝をすることが出来ましたよ」、と誇らしく報告することが出来ると思います。
たくさんの「ありがとう」と共に生きていけたら良いですね。
画像は先日玄関の扉に着けた、クリスマスリースです。
今日のフィーリングは、AI アイさんの「アルデバラン」、 ルチアーノ・パヴァロッティさんその他の「We Are The World ウイ アー ザ ワールド」、alan アランさんの「風に向かう花」かな