人を信じる事の意味は
人を信じる事はとても難しい事です。
信じた先の事は誰にも分らず、やがて自分の心が、とんでもない境地に立たされてしまう可能性が有るからです。
この世では詐欺や隠ぺいが、ニュースや新聞で取りざたされる昨今ですので、「人はまず疑ってみるべきだ」とされる風潮もうなずけるように思われます。
人はいつでも信じられるものではないかもしれませんし、人を信じすぎるのも危険だと言う事は、あると思います。
人は清廉に生きているように見えても、魂のレベルを表す「十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏)」の中で、特に「六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」のレベルをさ迷う心を持った、頼りないものかも知れません。
「出来心」とか「気の迷い」とか、様々な言葉で過ちを犯した理由を、表されることも有ります。
しかしながら人の心には、他人を助けるため真実を追い求め、自分を磨き上げようとする、何か美しく光り輝くものも棲んでいます。
その人の個人的経験から他人の苦難を見詰めて、その苦しみを取り去るための努力をしている方々は、たくさんいらっしゃると思います。
人の苦しみを取り去ろうと日夜勉学に励む人、人の為に身を粉にして働く人、人を楽しませたくて自分の技術や芸事を磨く人など、実はこの世は、「菩薩(ぼさつ=自分だけでなく他人も幸せにしようと修行するもの)」たちが沢山存在する素晴らしい所のようにも思われます。
そのため人は他人によって救われていて、他人のお陰でも、その毎日があると言っても過言ではありません。
それでは毎日生きていて、いつもみんな幸せでいるべきなのですが、実際はそのようにならない日々が沢山あるのは何故なのでしょう。
ずっと昔からあらゆる場面で、「人生は修行の連続」だと言われてきました。
それ故この世で痛みや苦しみ、惨めさや悲しみなどを味わって、それを越えて得た心の境地を持つまでは、完全に納得することは難しいのでしょう。
それは心が通じ合う人に遭えるかどうかは、天の采配であり、その采配をを引き寄せるのは、その人の「心の鍛錬の結果」に違いないからです。
負の感情を己の内面で消化せず、他人にぶつけてばかりである時には、自分が陥った不運から脱するのを、本当に救ってくれる様な存在の人に出会えないのです。
困ったとき助けてくれる人がいる時は、その人はその人生の過程を、神様から認めて頂いたと言って良いかと思います。
「何かトラブルが生じたとき、助けてくれる人が見つかって信じてみる」、そこに信頼関係が生まれ、絆のようなものが生じます。
その時トラブルを回復させるような、「思いもよらない力」が発揮される事が有ります。
それでも信じても信じても、結果を得る事が出来ないことも有ります。
そんな時は、まだその結果を得るに至っていない、修行の残りが有るのかも知れないと考えてみると、怒りや不安も少し落ち着いて来るかもしれません。
日常から見詰めなおし、自分自身の中に「人を慈しむ心」を見出せるか、また「人のために何か努力しているか」を問いかけてみる事も大切でしょう。
画像は青森県十和田湖畔です。
今日のフィーリングは、来生たかお氏の「気配」、佐藤直紀氏の「Face Oneself フェイス・ワンセルフ」、Ella Fitzgerald エラ・フィッツジェラルドさんの「Someone To Watch Over Me
サムワン・トゥ・ワッチ・オーヴァー・ミー」かな