時には ほとけさまに心を寄せましょう
日本におけるほとけさまと神様についてお話ししたいと思います。
この世には、本当に何でも通じていらっしゃる方々も居られますが、その様な話は今まであまり話題になさらなかった人生もお有りかと思います。
以前にもお伝えいたしましたが、仏教は「十界」という魂の宇宙と思われる、十の世界に分けられております。
地獄界から仏界に至るまで、それはその人の持つ魂の階級とでもいうべき「魂のあり様」のことによって、そのように分けられているのです。
人はこの世にいつまでも存在出来るものではありませんが、その心のあり様で、どの界にも堕ちる可能性があります。
つまり生きながら、心は地獄界にいることもあるはずです。
すべては この世にいる時、人の幸せを祈れるのか、また人の役に立とうという気持ちを持てるかによって、その魂の階級に見合った世界に住むのでしょう。
その様な心を持って、修行した人を「菩薩 ぼさつ」と呼びます。
人間より下の「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」までは、「菩提心 ぼだいしん」がないとされてきましたが、この中にあっても、ひとすじの光が降りて来るようなことがあり、そこからほとけの道に入ることが出来ることもあると聞いています。
たとえば、宮本武蔵は「勝つこと」だけに武芸の頂点を置き、人の命を多く奪ったことでしょう。
敵との決闘のとき、相手の跡継ぎである、12才の子供の命まで奪って切り捨てるなど、人の心を持つ者の所業ではありません。
このことからも、武蔵は修羅界に住んでいたものであったのでしょう。
ところが晩年になり武蔵は五輪書を著わしたり、観音菩薩を自ら彫刻したと聞いています。
この人は底知れない闇を越えてこなければ、「ひと」になれなかったのでしょうか。
これを「業 ごう」と呼びます。
心の中で、様々な事が理解できそうでありながらも、そうするより仕方なかったという気持ちで(人を傷つけたり困らせるのは分かっているのに)、そうしなければ生きて行けない人もこの世にはいるのでしょう。
それゆえ時折経典から学んだり、高僧の話を聴くことが良いと思われます。
修羅道におちると、のどが渇いたときに海水を飲むようなものです。
飲んでも飲んでも、のどの渇きは癒されません。
そんな時は、仏に心を寄せて頂きたいです。
神社仏閣で静かな時を過ごすのも良いでしょう。
十界の中で、「声聞 しょうもん」「縁覚 えんがく」はなぜ菩薩より下にあるのでしょう。
「声聞」「縁覚」は己の解脱(げだつ)を主眼として修行する者です。
その者たちはまず己の悟りを求めて修行するのであり、菩薩は人の幸せを修行の頂点としているからです。
日本は大乗仏教(だいじょうぶっきょう)といって、自分も他人も一緒に幸福になりましょうという「大きな乗り物」の仏教です。
大きな乗り物には、大勢の人が乗ることが出来ます。
その乗り物は、人の心の幸福を得ることのできる所へ、連れて行ってくれるものなのです。
自分だけの幸福ではなくて、他人もいっしょに幸福になれる道を「尊い」としているのです。
そのような修行をする者たちを「ぼさつ」と言います。
「神」と呼ばれる存在は、何の修行もしなければ、人間界よりただ一段階上であるだけです。
それでも「神」が人を助けようとするとき、その心は菩薩界に昇られるのです。
画像は、青森県八甲田山 笠松峠(かさまつとうげ)付近です。
先週行って来ましたが、このあたりはもう綺麗に紅葉していました。
今日のフィーリングは、イエスの「To The Moment(Single Edit)トゥ・ザ・モメント」、久石譲氏の「アシタカせっ記(エンディング)もののけ姫」かな