天を動かすのは 日常の私達の行いです
戦争状態になった国々の発言の中で、よく「相手がはじめに自国民を殺したのだから、そんな民族は滅ぼされても仕方ない」ということがあり、武器弾薬をふんだんに使い、武器を持たない一般市民にも構わず殺戮を行う様相を見せています。
毎朝ニュースを見ると「皆どうかしてしまったのか」と、本当にこの世が進行していく方向に「やんごとなきもの」を感じていて、多くの人々の論点になるのもごく自然なことでしょう。
戦争は人の心の中の「悪魔」の部分を成長させ、それは「他人の悲しみ」を感じる心を、鈍麻(どんま)させてしまうようです。
どんな民族でも長い歴史の中で、一生許せないほどの感情を持って思い出す事柄は、例えば自分の国へ勝手に侵攻して来て殺戮を繰り返されたり、自分の民族が足蹴(あしげ)にされ続けたり、歴史の中では多くの場所で見られてきた光景です。
そんな不条理な数々の歴史実を、人々は嫌と言うほど知っているのに、そんなことはすっかり忘れてしまい、またイチから人殺しを美化していくのです。
歴史がしたためられて来た目的のひとつに、人々が二度とこんなあやまちを犯さないこと、他に不条理な苦しみを与えないようにするための見本として、記録していることもあるはずです。
だから「歴史を学ばないものは滅びる」という言葉がこの世にあるのです。
今戦争を仕掛けている人々は学生時代、歴史の時間に何をしていたのでしょうか、早弁をしていたのでしょうか、それとも寝ていたのでしょうか。
よくこんなとき「神様は何をしているのですか?」という言葉を聞くことがあります。
神様は決して寝ているわけではありません、
じっと事の経過を見ておられるのです。
人々の中から、神様を感涙させる程の人が出現する日を、待って居られると思います。
それは心を修めた人々、人のために生きて、正しきことに命をかける人々を待って居られるはずです。
かつて一人の人をお立てになったように、「その人故に人類を助ける」という心を起こされる日をお待ちであるはずです。
それは人々が正しく生きようとする姿勢、他の人々や生き物をを慈しみ、他にも幸せを分け与えようとする心を持つこと、それは「菩薩の生き方」と言っても良いと思います。
自分だけでなく「他の人々も共に幸せになりましょう」という、心のための修行を続けること、宗教を得なくともそのような素朴な優しさや、人に対しての温かな眼差しを持てるような人々が、たくさん生まれて来るなら、天は必ず私達に「本当に心安らげるその日」を与えて下さるはずです。
自分には関係ないことなど、本当はこの世に一つもないのです。
「聞くも因縁、見るも因縁」という言葉があります。
自分が見たり聞いたりしたことは、全て自分に対するメッセージで、「あなたはこれをどう思いますか?」と天から問いかけられているということでしょう。
この世を変えるということは一般の私達とは関係ないことではなく、「私達の日常の心の在りようこそが、だんだん世界を変えていく」ということである、と言っても過言ではありません。
世界の悲しみを滅して行くには、毎日私達が心を修めようと努力することが、実は一番確実で大切なことではないでしょうか。
その心たちが天を動かすのです。
ある経典の中に、「少数のものがいなくなれば大勢が助かるのなら、その少数の者は死すべきである」という意味合いの言葉が、書かれていたのを思い出します。
少なくとも「死すべき側の人間」にはなることなく生きていきたいものです。
また、いろいろな批判を、平気で話したり書いたりできる日本であることに感謝するとともに、これからもそのような国であり続けて欲しいと思います。
画像は青森県十和田湖畔の、ナナカマドの木です。
赤色がとっても綺麗でした。
迷ヶ平(まよいがたい)から宇樽部(うたるべ)までの山道(国道454)は、途中からもう雪景色でした。
今日のフィーリングは、MS・OOJA(ミス・オオジャ)さんの「Fly フライ」、島津亜矢さんの「Forebeer Love フォーェヴァー・ラヴ」かな