私達は皆 光輝くべき人間です
自分の友や知合いが、何かのことで人生の「誉れ」を手にしたとき、自分が幸せの目的地に至っていない場合は、大きな不安に苛まれる事が有ります。
自分だけ置き去りにされ、蔑まれているような不安に取り囲まれるのでしょう。
その時人は「岐路」に立っています。
「光り輝く存在」を喜んであげられるか、あるいは無視するか、憎み不運を望むかのどれかでしょうか。
喜べなくとも喜ぶ努力をしてゆくと、やがて本当の幸せが必ず訪れるはずなのですが、人は色々な場合で、この様に天から査定されているのかもしれません。
誰にも負けないその人なりの光が、何処かに有るはずです。
あの人は私より美人だとか、頭が良いとか社会的地位があるとか、捜し始めたらきりがありません。
ある人が輝いて見えるとき、その人には努力したとか、耐え忍んだとか様々な苦しみがあって、そこまで来たはずです。
そして天が許しを与えて下さった結果、幸福が訪れる訳です。
人に負けないとか、追い抜いてやるという感情は、時にその人にエネルギーを与える事もあるでしょう。
しかし、常に他人と比較する心の流れを保ち続けると、大きな疲労と、心の隙間に悪魔の入り込む恐ろしさが生じます。
感情が揺れ動くストレスのために、「あいつ、居なくなれば良いのに」と思い、さらに「死ねばいいのに」などと想うなら、それは悪魔の城の入口に立っている証拠かと思われます。
もし悪人と呼ぶに相応しい者が居たなら、その処罰は人間の心の斧で切り裂かず、天に任せることが最良ではないかと思われます。
死者の霊より生霊の方がもっと恐ろしいと聞いたことがあります。
自分でも知らないうちに、負の感情をもって執着した、他人への想いを放出してしまうとき、「それが大きな力を持って相手を傷付ける」という考え方でしょう。
私はこれを聞いて以来、朝起きるとお線香を焚いて、心にある負の感情を燃やしてしまいます。
一つ一つ注意深く、丁寧に他人に対することは、とても大切だと思います。
人が良い運を得たと見たり聞いたりしたとき、実はその人にも幸運の訪れが近づいています。
「人の幸せ」の知らせを受けるのに相応しい人だからこそ、それを知ることになったのです。
この世にせっかく人として存在しているのですから、せめて生き方だけでも美しく在りたいものだと思います。
私達は魂の中に、唯一無二の光り輝くものを持っていたからこそ、人としてこの世に生まれたのです。
画像は、八戸市史跡根城広場の福寿草です
今日のフィ−リングは、
Joe Sampleジョー サンプル氏の「道草」
中 孝介氏の「花」
土岐 麻子さんの「美しい顔」かな