霊は現れるその姿が大切です
昔私が住んでいた家が取壊されるにあたって、ずっと拝んでいた仏壇がやって来ました。
そして春彼岸が明ける日、夢をみました。
母と子がもんぺ姿で、私の袖を掴み「私がご飯を落としてしまったら、まわりの人達がそれを争って食べるのよ」と訴えていました。
あの姿は戦時中のことだと感じました。
薄っすら汗が滲んでいましたので、終戦の頃でしょうか。
私は子供の頃から、その家では本当に恐ろしい思いをしていました。
机に向かっていると、怖くて後を向くことができず、身体が硬くなってしまうことが幾らもありました。
だいぶ経ってからその場所では、昔空襲で防空壕の中にいた母と子が亡くなったと聞きました。
それから私達家族は、様々な供養を行って来ましたが、その親子の姿が現れることは一切有りませんでした。
多くの方々は、「初めからそんなものは無かったのだろう」と思うかもしれませんが、実は供養を行っても、霊が姿を現さない時が一番恐ろしい、と聞いたことが有ります。
酷い死に方を迎えた人の魂が怨念を持つとき、姿を現さないうちに、生きている者に大打撃を与えて行くということらしいです。
何十年も経ってから、初めて母と子の姿になって夢で伝えてきたのは、その人々がやっと供養を受け入れる気になったという事でしょうか。
その姿が現れてから、初めて本当の供養に入る訳です。
人は幽霊と聞くと震え上がって、拒否感でいっぱいになるようです。
恐ろしい姿で出てきたものには「ぎゃあーっ」と声を出してしまうかもしれませんが、実は霊にはそういう姿でしか現れることが出来ない、大きな哀しみが有るのです。
酷い死に方、つまり寂寥の中や苦しみの中で亡くなった方が怨念を抱いた結果、その念の自縄自縛となりながら、その想いを受け止めてくれる人も居ないような、本当に辛く哀しい霊たちであると言えます。
もしそんな霊に出会ったときは、そのような姿で現れることは、さぞ苦しい事だと理解してあげたいものです。
どんな姿であれ現れてくれたことは、その方が供養を受ける気になった喜ばしい事です。
そしてご縁があったなら、「真心」をもって供養をなさってください。
きっといつか優しい面差しで、春の日々のような穏やかな幸せを、霊も供養した人も味わう日が訪れる事でしょう。
画像は青森県十和田市「道の駅奥入瀬ろまんパ−ク」から見た八甲田山です。
今日のフィーリングは、やなわらばーさんの「ワダツミの木」、ウ−・ファンさんの「春よ来い」、Kansasカンサスの「On The Other Sideオン ディ アザー サイド」かな