マーシー・ストリート
その曲を初めて聴いたのは、FMを聞いていた時でした。
普遍的な道理と割り切れない哀しみが、民俗楽器のような音のリズムと共に、胸に迫ってきました。
誰かの痛み続ける心と同じ温度が感じられて、哀しくて寂しいのだけれど、それはその人が、この世に存在するために欠かせなかったものの様に感じられました。
題名や歌手の名も知らないのに、その曲と自分の間にある、ある種の絆のようなものを人に感じ取られたくなくて
誰にも聞けませんでした。
ある時再び大病をして入院しました。
痛みが激しく、本当に苦しかった数ヶ月を通り越して、外出許可が出ました。
嬉しくて、何か音楽が聴きたくなり、八戸の街でCDを買おうとお店に入ろうとした時、何故か私は私でなくなった気がしました。
まるで足が勝手に動き、ある棚の前に来ると勝手に止まり、私の右手は棚の中から一枚のCDを取り出しました。
ピーター・ガブリエル氏の「SO」というアルバムでした。
「これを聴けと言うことかな?」と思って購入しました。
病室に帰って来た夜一人で聴いていると、あの探していた曲が流れてきました。
「え−っ?何これ!」と思わず叫びました。
それが「マーシー・ストリート」でした。
哲学的で宗教的で、曲の全てが忘れられないような、私にとっては生涯の一曲です。
そのCDを手に取らせたものは何であったのでしょうか。
今でも喧騒の日々が続くと、自分を原点に戻すためにその曲を聴いています。
優れた表現者は優れた霊媒だと聞いたことがあります。
天の「意志」がその人に降りて来て、人々を感動させるような作品を産むと言うことなのでしょう。
全ての分野の表現者は、それぞれの分野で人の心を癒し、光へと導くことが有りますが、それは表現者に関わらず、ものを作る人売る人、研究したり何かを治したりする人、全ての人々が知らぬ間に天の意志を受けて、仕事をしているかと思われます。
私達の幸せもまた、人々の志と研鑽の上に成り立っているものなのでしょう。
人々は互いに感謝し、尊敬し合うべき者たちなのかしれません。
画像は「青森県八戸市新井田公園の桜の木」ですが、物凄いインパクトをうけて、少し恐かったです。
今日のフィ−リングは、ロドリーゴ・レアン&ヴォックス・アンサンブル「アヴェ・ムンディ」、Mans Zelmerlow(モンス セルメロ−)氏の「The Angel Gabriel」かな