仏に対しては人と同じくすることも大切です
ある時思い立って、少し厳しい修業をしてみようと思ったのです。
いつまでも自分の思い通りにならないこの人生には、何か恐るべきものが潜んでいるように思えました。
2月の初日から毎日朝4時に起きて、浴槽に水を張って、頭から何度もそれを被りました。
死ぬほど冷たかったですが、その後お経を何時間もあげて10日ほど経った頃出てきました。
左側の部屋の奥に、戦前の髪型の様な束髪の女が立っていました。
その女が私の右側に立つと、冷たい頬を私の頬にピッタリ付けて「2つあるものは1つ無くなる」と言いました。
目か手足か耳か肺か腎臓か、どれなのかと不安になりました。
その女は、土地についていた地縛霊でした。
以前防空壕で亡くなった母子で、
母だけが出てきたのは、念がとても強かったからでしょう。
自分の子だけでも助けたかったのに、誰も救けてくれなかったのです。
その悲しさと悔しさに縛られた強い念でした。
人はあまりに強い念を抱き続けると、その中に魂が縛られて、どうすることも出来なくなるようです。
地縛霊が恐ろしいのは、人に対する攻撃性です。
自分の孤独の苦しみから抜け出そうとするあまり、他人にもその苦悩を与えるしかなくなるからです。
そのような時は、線香とお経やお供物なしに導くことは困難です。
生きている人は、死者たちはもう味や感覚を必要としていないと思うのかもしれませんが、そうではありません。
かなり長い間、味覚を忘れられない方や物に執着する方も在ります。
其のために亡くなった後、果物やお菓子やご飯を供えます。
お菓子はビニール袋のままでなく、開封して香りを伝えます。
果物も出来れば香りが立つような工夫をすると良いでしょう。
白いお団子は好まれます。
施餓鬼などの大きな供養を為さるときは、必ず神様もお呼びしてから為されることをお勧めします。
それぞれの神様に対して、あげるものが違いますので、供養の専門家に相談為さると良いでしょう。
神様をお呼びせず、亡くなった方々の大きな供養を為さると、いわゆる「背負ってしまう」事になります。
神様とのお付き合いも忘れずに為さると、より良い供養ができるはずです。
仏に供物をあげると、その後全部食べ切れないから、もったいないと思う方もいらっしゃるようです。
でも、例えばお客様にお菓子を出せば、それはなくなるものです。
仏も同じで、形は残っていますが、それは仏様が召し上がって、無いも同然のものです。
食べ切れなければ他の人にも差し上げて、供養の心を共感して頂きましょう。
それでも残ったなら、そのまま流して(捨てて)良いものと思われます。
「廃棄」とは全然意味が違うものなのです。
物体が残っているのだから、人情として出来れば流したくはないけれど、そのような考え方が無いと、仏に対して本当の供養が出来ていない可能性があります。
彼岸と此岸の住人が違うと考えるのは当然ですが、仏の心に対しても、生きている人と同じ態度や考え方を為すべきだと、私は思います。
<画像は家の小さな庭に咲いた、ジャーマンアイリスです。 p>今日のフィ−リングは、Evanescence(エヴァネッセンス)さんの「Hello(ハロー)」、南佳孝氏の「天文台」、STING(スティング)氏の「Shape of My Heart(シェイプ オブ マイ ハート)」かな
私の行った21日間の早朝の、水を被ったりお経をあげたりして霊を出す事は、霊が必ず姿を現すというものでもなく、生命の危機を呼ぶ可能性が在りますので、絶対真似をなさらないで下さいね。
心よりお願い致します。
実際この後私には、壮絶な苦しみと生命の危機が訪れるのです。