釈迦牟尼仏の教えは、心の平安がある場所の一つです
例えば苦しみの中で、どうして良いのか分からない時は、自分で償うべき「業」を修行していると考えられます。
「輪廻」の考え方を受け入れるとすれば、生き物は全て輪廻を繰り返し、何度も違った世界を生きて行きます。
その立場の中で、様々なことが起こって来ます。
昔なら王は王なりに、臣下は臣下なり平民は平民なりに、それぞれ違った悩み苦しみがありました。
現代は身分など関係ないとするのが普通ですが、依然として人の心にはそれが存在しているように思われます。
学歴があるとかないとか、昔からの尊い家柄であるとかないとか、人の心には自分と他を比べることが多く、それによって自分を誇ったり卑下したりすることも有ります。
天の下では基本的に「存在」として全てが平等であるはずですが、いま切り取った瞬間があるなら、その中に於いてはお金持ちで在ったり貧困で在ったり、幸せで在ったり不幸で在ったりと、その格差が見られます。
しかし一生不幸であり続けたり、幸せで在り続けたりする人もいません。
それ故案外長さのうちには、平等に出来ているのかもしれないと思います。
ある人はこれを持っているが、ある人にはそれはないけれど、違うものを得ていることが有るはずです。
しかし人は他の人が持ってるものを感じ取って、「それを今、得ていない自分」を責めて苛立つのではないでしょうか。
この世に存在するあらゆるものは、可能性を持っています。
例えば「もの」であっても、誰かの大切なものだったころを経て、その人に必要でなくなればゴミとされることも有りますが、もしかしたら誰か他の人が使ってくれることも有ります。
人でも、今は何も良い事や誇れる事が無いけれど、半年後数年後、その先の未来で、全然違った運命の流れの中で生きているかも知れません。
いつか習い事をやめようとしていたら、「それをやめるのが一番の負けなんだよ」という言葉を賜り、自分をよく振り返ってみました。
色々なことをやめて来ました。
病気や怪我があってやめたのですが、それでも「必死で掴んだまま、放さないでいるべき道が幾つかあったな」と思います。
それをやめてしまったから、私は辛い想いをして勉強したのにスペシャリストとはなれず、ただ「そのような技術や学問を経験しました」としか言えないのです。
あの時賜った言葉から、私がやめようとしていた習い事は、私にとって続けるべきものだったのでしょう。
それでも、止めることがいけないというのではないと思います。
「あの時やめてよかったな」と思えるような道を見つけたなら、歩み続ける勇気と努力を惜しまず生きて行く時、人間関係や仕事の技術的な悩みなどと、苦しみの中で対峙した経験から、それをかわして行く「知恵」が生まれて来るのではないでしょうか。
私たちが例えば病気の時は、薬師如来にお祈りします。
経済的悩みを抱えているときは、恵比寿大黒天や七福神などの神、天竜八部衆などにお祈りしますし、大切な人を失った時は観音菩薩や地蔵菩薩にお祈りすることも有ります。
そのそれぞれの仏や神の袖口にすがる時、それが実は全て釈迦牟尼仏の御前にお参りしていると考えられます。
そして釈迦牟尼仏はかつて私たちと同じ人間だった者が覚者となり、仏となった訳です。
人間以上の天上界の方々でも、人と同じように苦しみ悩むのです。
つまり心の平安がないのです。
神という名で呼ばれたとしても、心は揺るがない平安の中に鎮座しているわけでなく、怒りや焦り嫉妬心などに苦しむのです。
神仏やこの世の理の全ての事柄が、釈迦牟尼仏の経典の中に存在し、そこから人や生き物を救う手立てや法則を見つけることができます。
覚者は宇宙の真理を体現しているという事かも知れません。
そして釈迦牟尼仏は私たちと同じ人間だった方です。
もちろん誰でも覚者に成れるわけではありませんが、覚者の言葉を信じて人生を修行して行くと、心はやがて平安に近づいて行くはずです。
平安である日々は、この世で一番幸福な時を生きているという事かも知れません。
お経を読むということは、「その平安の日々へ続く道のりを、知る手立てを教えられる」と言う事だと思います。
それ故神仏全てにお経をあげるということは、けして間違ったことではないと思います。
画像は青森県八甲田山の「地獄橋」です。渡りたくないですね。
今日のフィーリングは、バブルガム・ブラザーズさんの「Won’t Be Long ウォント ビ ローング」、ラッセル・ワトソン氏の「That`s Life ザッツ ライフ」、Pink Floyd ピンク・フロイドさんの「Time タイム」かな