平和な世界が訪れて欲しいです
この世に於ける「戦い」「紛争」を引き起こしている原因の一つが宗教の存在であることを、多くの方々が指摘していらっしゃいます。
(辞書によれば、「宗教というものは何らかの超越的絶対的な者、また卑俗なものから分離された神聖なものに関する、信仰行事のこと」というものだそうです。)
何故宗教がトラブルの原因となるかを考えてみると、それはやはり後世の人々が「責」を問われている可能性を感じます。
かなり前のテレビ報道で、宗教指導者同士が殴り合い蹴りあい(中には飛び蹴りをしていた人もいました。武術家なのか?)を見たことが有ります。
どの様な場所でどのような人々であったかは、話すべきではないように思われますので伏せておきますが、大きな絶望という衝撃を受けたことは、言うまでも有りません。
それぞれの宗教の中で、自分の宗教が至上最高だと信じるために、その宗教に深く入って行くと思います。
そしてそれを他人から非難されたり揶揄されると、怒りが頂点に達するのは、自分自身の知性をもってその宗教を選択した、己の自尊心が打ちのめされるためであるように思えます。
冷静になってみると、どの「正しき教え」も間違いではないのです。
どの「正しい宗教」の中の「人々を導く書物」の中にも、宝石のように輝く感動を、私たちに与えてくれるものが書かれているのです。
「真理は一つ」は確かなことです。
真理が二つも三つも有るのなら、この世は不安で満たされるでしょう。
何故争いあうのでしょうか?
自分の信じる理念だけが、真理を見出すことが出来ると信じて疑わないことは理解はできますが、それでも他の宗教を足蹴にしては、その時点で真理が遠くなってしまわないでしょうか?
心の底で、自分とは違う宗教や理念を持つ人の「転落」を、例え潜在的にでも祈っているのであれば、そこに神はいらっしゃるのでしょうか?
またそこに愛はあるのでしょうか?
幸せなことに私はずっと若いころ、色々な宗教を持つ色々な国の方々と話をする機会がありました。
どの方も親切で心優しく、どれほど心が癒されたことでしょう。
それを思い出すと、どの方々もどの「正しい宗教」を持っていたとしても、同じような安らぎの場所に辿り着けるのではないかと感じられました。
山の上には天があり、その天は繋がっていて、私たち「生き物」がそこへ向かうための、努力や修行するための登山ルートは多くあり、その一つ一つがそれぞれの「正しき宗教」の入り口ではないかと思っています。
頂上に行くための、修行の途上で出会った他の宗教の人々に対しては、「あなたもここまで登っていらしたのですか?」と言ってその労をねぎらい敬いあい、手を振りあって別れてから、また己の修行を行うというのであれば、争いは生じないと思います。
他の「正しい宗教」を敬い、それに従う人々に対しても敬いの気持ちを持つことが出来るのなら、その人が信じて来た神も仏もが更に輝くのではないでしょうか?
そのことが世界中の人々に理解されたら、もっと平和で幸せな世界が、訪れるのではないでしょうか?
画像は「青森県八戸市の種差海岸で見た恐竜のような岩」です。
今日のフィーリングは、ユジャ・ワン、ロサンゼルス・フィルハーモニック、グスターポ・ドゥダメイル「ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調 作品十八第一楽章」、ダイアナ・クラールさんの「ザ・ルック・オブ・ラブ」、カーペンターズの「A Song for You ア・ソング・フォー・ユー」かな