ものの言い方は大切です
たった一言で、今まで温順を保っていた人間関係にひびが入るのは、この世では時折あるのですが、それによって一生たもとを分かつことになるのは残念な事です。
無造作に感情に任せて言葉を使うのは、自分に余裕のない時よく起こり得る事ですが、その人自身の運命もどちらに向かうか分からない事になるのかも知れません。
自分の世界の中では、自由な言葉はあってよいと思います。
一人の時間、数少ない自分自身の時間には、自由な言葉の世界で自分を開放することがあっても良いと思います。
それでもどんなに鬱積した感情を持っている相手に対する言葉でも、気を付けたいのは「死ね」という言葉です。
相手に面と向かって言わなくても、例え孤独な自分自身の時間の中でも、その言葉を放つとき、その一言は鋭い矢となって何処かに向かっていきます。
そしてその方向は、「天のみぞ知る」ことでしょう。
例えばテレビを見ていて、どうしても理解できない様な意見を言っている人や、一国の指導者があまりにも不条理な政策を行っている様に思えるとき、それは時折容易に口に出してしまうかも知れません。
人間はそのように思ってしまう事が多々あります。
世の中に対して、色々な意見を持っていいと思います。
自分の考えは誰でも持つべきだと思います。
しかし自分の意見と違う相手、理解の範疇を超えている相手に「死ね」という言葉は、やはりいけないと思います。
「死」とは生物の最終章であり、この世に存在することが叶わなくなることです。
それは全ての「更生するチャンス」をも失う事です。
しかし魂の状態で人はこの世に残っていて、それがあらゆるところに存在していると考える人も多いかもしれません。
自分の放った自由な感情表現が、どんな人に聞かれているのか知られているのか分かりません。
本来、人が他人に対して死を要求する事を許されるのは、法廷のみであるべきでしょう。
ところが歴史的に見ても、権力のある人が他の命を奪って来たのを見るのは容易です。
それを見て来た人々は、「この人がいなくなれば、こんなことは起きないはずだ」と思ったことでしょう。
それはつまり、その死を願っている可能性が有るという事です。
思う事もいけないなら、この世は酷く鬱積したものになるでしょうが、せめて口には出さない努力をしたいと思います。
画像は新青森駅の展示物です。
大雪の日にこれを見て、何かほっとしました。
それは「夏のエネルギーを感じる」からかな?
今日のフィーリングは、姫神さんの「雪の女神」、Larry Carlton ラリー カールトン氏の「Room335」、YES イエス の「Siberian Khatru シベリアン カトゥール」かな