何故ご供養は幸せを呼ぶのでしょう
春彼岸が近付いて参りました。
先祖や天に帰られた先人や友の方々に、逢える季節ということです。
亡くなってまもなくは心のなかに面影が生きていて、悲しくて私達の生活と同じ次元に、まだその人は存在しているように感じられます。
何年も経ち、生きている私達が人間関係や、経済問題や仕事上の複雑な事情などにさらされてくると、その喧騒の中で、ゆっくりと先祖との親交を持とうという気持ちが、薄れて行くこともあるでしょう。
人が亡くなると、三回忌以降からだんだん仏の心を得ていくと、聞いたことがあります。
それは仏としての「存在の力」を持つということであり、「存在の力」とは残された方々への「想いの力」ということです。
亡くなってから百ヶ日は家族もみな心寂しく、水をあげたり食べ物をあげたりしますが、この百ヶ日がとても大切です。
このときは、かつて「ひと」だった魂が、別の世界へ移り始める時期です。
亡くなってから四十九日の間は、様々な仏様とお会いして仏になられる準備を整え、そしてその間は、この世とあの世を行ったり来たりなさるといいますが、私の経験では百ヶ日間は、水が必要だと思われます。
私は父が亡くなったとき、亡くなったその日から百ヶ日の間は、朝お水と甘いものをあげ、夜寝るときにまた新しいお水をあげて、また朝になったら新しいお水とまた何か御供物をあげて、それを繰り返し、お水を二十四時間切らさないように致しました。
お経も毎日欠かさずにあげましたが、法華経第二番「方便品 ほうべんぽん」、第十六番「如来寿量品 にょらいじゅりょうほん」、第二十五番「観世音菩薩普門品 かんぜおんぼさつふもんぼん」は、とても大切にあげた記憶があります。
法華経は選ばれた人のものであると聞いたことがありますが、それを求める全ての方々のものでもあると、私は思います。
それ故何宗何派は関係なく、心を込めてこれをあげられたら、亡くなった方も残された方々も、心穏やかな日々が近付いて来るものと思います。
なぜならその経を読むということは、その中で神仏の徳に巡り合う行為である故に、亡くなった方に「心の和」が生じ、残された方々の心の回復が始まるからです。
心の回復はどんな方々にとっても、これ以上の幸福はないくらい大切なことであり、人生における本当の幸せであると思います。
何年か経って命日などに、お墓参りに行かれたときは、亡くなった方はもう既に「存在の力」を持っていらっしゃるはずです。
苦悩に満ちた心でお参りに行かれても、ご先祖さまはその心に気付くはずです。
そして何も云わなくても、その人の、不運からの回復に力を貸して下さると思われます。
しかしながら、ご先祖が発揮できるその「力」の度合いは、残された人々の心持ち次第でもあります。
例えば命日に心を込めてお参りなさったら、心の交流が起こり、先祖の「存在の力」も強くなります。
そしてなにか大きな災のときなど、強い味方をして下さるかも知れません。
先祖にものを頼んでは行けないと聞いたこともあります。
お願い事をするとき、もし先祖がそれを解決できる力を持っていないなら、それは先祖にとって大きな心の負担となり、心安らかにはいられないからだと思います。
それも残された方々と先祖との心の交流が、満たされていないことから生じることが、多いのではないでしょうか。
そのためお墓参りはお願い事をせずに、その心を静かに持っていらっしゃると、いつか「存在の力」を手に入れた仏様たちが見守って下さるはずです。
それによって、とても強い力が私達に与えられ、幸せがやって来るという事ではないでしょうか。
画像は青森県三沢市の道の駅にあった、数々の彫像です。(今日は、午の日でした)
ここで「ほっき丼」というものを頂きました。
ほっき貝を湯がいた、ふっくらとした柔らかさがあり、貝特有のクセのある匂いが全く無く、本当に美味しかったです。
ごぼう茶のソフトクリームは、濃厚でありながら健康的な感じがして、味もすばらしかったです。
本当に思いがけなく、良い時を過ごして来ました。
今日のフィーリングは、小椋佳氏の「ラピスラズリの涙」、島津亜矢さんの「木蘭の涙」、宇多田ヒカルさんの「Hymnea L’mour~愛のアンセム~」かな