嫌な思い出は、未来の宝かも知れません
人は経験してきたことから、「この場合どんな言葉を使った方が良いのか」を学んでくるのですが、時折言わなくてもいい事まで言ってしまい、人の心をささくれ立たせる結果となってしまう事も有るでしょう。
そんな時は、その人の「真実」を理解するに至っていない状態なのかもしれません。
人は自分の経験してきたことから、他人を見ています。
つまり一つの角度から、その人を「評定」する訳です。
その時「評定された人」の持っていた「深い悲しみ」や「やんごとなき事情」を他人は知りません。
それでいながら「人」を評価するので、この世に不協和音が流れて行くのはしかたのない事でしょう。
「評定された人」は耐えられなくなってしまい、精神的な圧迫を保ち続けて、なにがしかの病を呼んでしまう事もあるでしょう。
人々は一旦、他人から聞いたいわゆる悪口や書かれている悪評を、心の中でまっさらにしてみる日があっても良いのではないかと思います。
自分が「その人」に出会って、酷いことを言われたり、心がボロボロになる様な影響を与えられたのなら、自分自身の中で「評定する」のは構わないと思いますが、他人を巻き込んでその人を取り囲み、攻めて行くのは少し違うのかも知れません。
あくまで一対一の攻防であるべきかと思います。
人は過ちを犯すものです。
「正しき道」ばかり歩けない私たち「人」は、心に、子供のころからの記憶や友の言葉、壁にぶつかって流した血の痛みから、自分自身の規範を作ることが有ります。
そしてそこからどれが正しき道で、どれが誤った道かを決定して行くのですが、いつも正しき道の通りに生きることが出来ないのは何故でしょうか。
嫌な思いをさせられる時は、その人が多くの「負の魂である生霊や死霊」を背負っていることが多いのです。
また逆の場合もあります。
「負の魂」を多く背負っているから、人に嫌われることも有るはずです。
悔しいのはとてもよく分かります。
「こんな嫌な思いをさせられて、あの人はいったい何なの!」という気持ちもよく分かります。
それでもその悔しさが、ある時自分のエネルギーに変換される日が有ります。
それは、そのエネルギーが「復讐」という形ではなく「自分を研磨してくれることに対しての感謝」として出る日の事です。
苦しみを与えられても、立ち上がって対抗する時、知らぬ間に自分なりの何かを学んでいるのです。
そして必死になって打ち勝とうと努力した結果、思いもよらぬ幸福に出会うことも有ります。
それが実は未来の自分にとって不可欠な「宝」を与えてくれることが有るのです。
悔しさのあまり人を傷つける事にエネルギーを注ぐのでなく、人から与えられた「刺激」を正のエネルギーに転換できるなら、その人は人生の達人への道を突き進んでいます。
法華経第十二番 提婆達多品(だいばだったほん)に、このことに対する「光り輝く謎」が解かれています。
悔しくて悲しい日もまた、神仏のいらっしゃる場所へ通われることをお勧めいたします。
その時私たちが(例え気づかなくても)、神仏の優しい目が注がれているのです。
そしていつかその人の心が磨かれてきたと判断されたとき、きっと幸福は訪れるはずです。
画像は11月の八甲田山です。
今日のフィーリングは、佐藤直紀氏の「飛天」、Pink ピンクの「Try トライ」、Stevie Wonder スティービー・ワンダー氏の「Superstition スーパースティション / 迷信」かな