追伸ー仏に対しては人と同じくすることも大切です
あの仏壇の前に立っていた、網代笠の僧侶が誰だったのかは、あえて言わないことにします。
信仰の理由から、それを説明しても多くの人の理解を得られるような、言葉も見つからないような気がします。
このことは、またいつかお話しすることがあるかも知れません。
いずれにしても外国の文化や歴史を本当に理解するには、聖書の理解が不可欠だと聞いていましたので、不思議なことではないでしょう。
この世には多くの宗教が存在します。
その中でも仏教が著わしている思想は、誤解を恐れずに言うなら、ある種の無神論のような気がします。
もちろん神や霊の存在は当たり前のように認識されていて、先祖供養や神社のお参りで神仏は敬っているのですが、仏教徒は仏法に従って生きることが基本です。
お経は仏法そのものであり、それが仏教徒の生き方を指南しているのです。
例え神や仏が自分を見ていないとしても、正しいとされたことはすべきであり、仏法に背くことは行うことを避けるのです。
そしてその仏法は、かつて我々と同じ人間だった「ゴーダマ・シッダールタ」という人物によってこの世に書き表され、仏教徒はそれを生きる規範としています。
仏教には完全な対立相手としての「悪魔」がいません。
「我神仏を敬えど、神仏に頼らず」と言った宮本武蔵氏ですが、彼は人生の後半に仏像を彫り、「五輪書」著わしました。
さんざん人を切り殺しても、人生の途上で、ある時悟りに近い境地に達したのかも知れません。
十界の存在がはっきり心に浮かぶのはこの人の故です。
人に生まれるも、剣を持って修羅の道を生きた人です。
そんな人が、ある時仏の世界に心を置くことがあるのです。
十界のどこからでも、仏に通じる道があるという事でしょう。
その世界に生まれたら、もう他の世界に通じることがないというのではなく、いつでも「可能性」に満ちていています。
どこか深い優しさがあるように思われて、私が仏教を好きな理由がそこにあります。
「とてつもない悪人」とある時判断されたとしても、いつかその人の心には仏に近づく可能性があり、それを導くのはお経であるという、生けるものへの「待ち続ける心」は、時折間違いだらけの選択をしてしまう、私たち人間への優しさに他ならないと思います。
私が回復してどうにか退院できたある朝、父と母にコーヒーを入れながら、東京の仏壇に出て来た網代笠の僧侶が言ったことを話してみました。
すると母が驚いて「ええっ?それ私がお父さんにずっと言ってきたことじゃないかしら?」と言いました。
母が子供のころ、自分の母親(私の祖母)が病が悪くなり病院に行く道すがら、ある寺の墓石の上に立っていた、仙人のようなものを見たということです。
それから祖母の具合が突然良くなり、無事退院できたとのことです。
そのため、ずっと幸運の神様だと思っていたらしいです。
私はあの後大変な目に合い、父には「病気と知っていながら無茶苦茶なことをして、この馬鹿者!」と散々叱られるし、ロクなことはなかったと思っていましたが、生涯の一曲である「マーシー・ストリート」の入ったCDを手に入れ、痛みも完全になくなり、そのあと「生涯のクルマ」に出逢うことになりました。
あの仙人のような人は「幸福の神様だったかな」と思っています。
画像は青森県八戸市の八戸公園のバラです。
今日のフィーリングは、ウクライナ国立交響楽団の「プロコフィエフ・シンデレラ組曲第一番、シンデレラのワルツ」、Queen クイーンの「39」、THE MANHATTAN TRANSFER ザ マンハッタン トランスファーの「SOMETIMES I DOサムタイムス アイ ドゥ」かな