龍も修行しています
きょうは龍についての質問を頂きましたので、そのことについてお話したいと思います。
龍は昔から、東洋では力強い権力の象徴であり、その力で人々に、幸せを与えて下さる神のような存在だったと思います。
そしてアニメや映画や小説の中でも、そのように表現されることも多いでしょう。
人々の身近にいて、心を通じ合えるような優しさと強さを、兼ね備えているように感じられるとき、「龍」は人々が信じて憧れる存在となって行ったと思います。
それに比べて西洋では、悪魔に近い存在として、人々に恐れられているようです。
この西洋と東洋の受け止め方は、同じ「龍」のことなのだろうかと、多くの方々は思われることでしょう。
それについては、どちらも同じ「龍」のことであると、お伝えしておきましょう。
「龍」という存在は、年を経たヘビのような長いもの(長虫 ながむしと呼びます)の魂の変遷の結果、その姿となったようです。
はじめは小さな長い虫(幼虫のようなものやミミズのようなもの)が死に変り生き変わりヘビになり、それが長く生きて角が生えて、やがて「龍」になって行くとよく言われてますが、それはおおよそ輪廻(生まれ変わることを繰り返す)していくうちに、長虫状のグレードが上がり、その魂が「意思」を持ち「力」を持ち、神に近いような霊力も備わっていった姿でしょう。
霊力を持っていくと人々は、超自然的なものに対して神格化して行くことでしょう。
そして「龍」というものは「大気」と同じではないかと、私は思っています。
大雨による川の氾濫、大雪、雷、竜巻、津波や雪崩など、人々が震え上がるような荒ぶる大自然の状態は、「龍」そのものです。
そのため昔は龍(龍は水神でもあるとされています)を鎮めるため「生贄 いけにえ」を捧げる風習が、この世の多くの場所でみられています。
大きな宗教の祖神が、実は龍神と呼ばれるものであることは、珍しいことではありません。
その神々の元は、人の涙も願いも踏み倒すことをいとわない、恐ろしい力を発揮するものであったことが、西洋では悪魔として認識されていたのでしょう。
一神教(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のように唯一の神的存在者だけを認めて、これを信仰する宗教)と仏教の違いは、悪魔と呼ばれるものに対して、許しを与えるかどうかだと思います。
永遠に神と対立する存在として、「魔」の存在として、西洋ではそれが善に変わることを、認めないということです。
しかし仏教では、永遠なる悪魔の存在はありません。
今現在たとえ「悪魔のような存在」であったとしても、お経の力、志を持った「行者」の徳の力を以て、「得度 とくど(仏陀の悟りの世界に入って行くこと)」することが可能であると考えられています。
怒り狂っているときは、心が満たされていないときです。
それは自分に向かってきた現実を、受け止める心の容量が少ないときです。
自分の心の容量が広がれば、ひとつひとつ心に整理され、ゆっくり消化して行くことができ、怒ることが少なくなるはずです。
お経や命を懸けた行者の徳によって、「龍」の心は安定して行き、その「得度」によって「人々を守ってやろうかな」「涙を拭ってあげようかな」、という気持ちになって来るはずです。
そんな心を与えて下さる仏の教えに感涙し、仏と同じである水の菩薩、観音様が大好きになるのでしょう。
その様になった姿の「龍」が、アニメや映画などで描かれる、私達の大好きな「龍」となる訳です。
「龍」は真実を見破るものですから、「命を懸けて進言してくるもの」「命を懸けて人々を守ろうとするもの、幸せにしようとするもの」を愛するはずです。
そのように人々に接するものを「菩薩」というのですが、「龍」は人々の中に紛れている菩薩の心を持った人々を、その人がたとえ願わなくても、勝手に守ってくれるようになるのです。
そんな美しく優しい「龍」に逢えるように、私達もその人生において、心の修行をして行きたいものです。
画像は、八戸公園の風景です。
今日のフィーリングは、ケニー・G氏の「Es Hora De Decir エㇲ・オラ・デ・デシール(スペイン語)言うべき時が来た」、阿川泰子さんの「The Gentle Rain ザ・ジェントル・レイン」、Libera リベラの「Far Away ファーラウエイ」かな
この題材の質問を下さった方に、心よりの感謝を申し上げます。