心に天を描きましょう
多くの人々は、幸せになりたいと思っているはずです。
人生の最終的な場所で、「ああ幸せだったな」と思える所へつながる道を探しながら、その人の時が流れて行くのだと思います。
その為なら「厳しい道のりも耐えましょう」「辛い修行にも挑みましょう」という事を受け入れられるかも知れません。
ところがこの人生というものの道のりは、思ったように続いては行きません。
何度も人に押されて転んだり、自分が人に寄りかかったり寄りかかられたりして、重たい気持ちと共に歩んでいくことも有ります。
その中で、何を指針にして生きて行ったら良いのか、分からなくなることもしばしばあります。
そんな時に、人の心の中に神や仏が居ないのであれば、それはとても恐ろしい気がします。
その人の心に神仏が居ないときは、自分が主役になり、その人生を描いて行きます。
例えば人生が一度きりであり、死ねば魂も何もないと考えるなら、この世で誰よりもたくさんの幸せを得たり、色々な場面で得をした方が良いと考えたりしないでしょうか。
人を押しのけて自分が思う道を突き進むのは、その途上にある人との交流や、その人生をより良いものにしようという意欲が、本当に保ち続けられるでしょうか。
自分が損をしたとか何かに負けたと認識したとき、心が暗くならないでしょうか。
神仏を心に描ける人は、例え自分の意に沿わない道を歩いても、それが修行であり、幸せになる準備のために、その辛い事も必要なのだろうと考えられると思います。
つまり耐えられるのです。
一番恐ろしいと思うのが、人に奉仕するような職種の方々が心に神仏を持っていないとき、その人はいつでも他人に対して、慈悲を心に保つことが出来るという訳ではないと思えてしまうことです。
例えば自分がひどく機嫌が悪い時、自分対相手しかいない空間で誰も見ていないとすれば、いつでも変わらぬ優しさで接することが出来るでしょうか。
以前そういった空間で起こった、とんでもない事件があったのを、覚えていらっしゃる方も多いでしょう。
もし自分が病気などで、身体を動かすことができない空間で、その様な人に出くわした時の恐ろしさは計り知れません。
私はたくさん病気をして、病院で治療を受けて来たので、人に奉仕するような仕事に携わっていらっしゃる方々のほとんどが、「人を助けよう」とか「人に寄り添おう」といった、優しくて崇高な心を持っていらっしゃることは、よく分かっています。
それでもまれに、とんでもない心の状態を持っている人が紛れているため、時折恐ろしい事件が世の中で生じるのかと思います。
現世だけを信じることの恐ろしさは、計り知れません。
「旅の恥はかき捨て」、「手に入れたもん勝ち」の様な心もちでいるなら、「徳を積む」という考え方が、保ち続けられるのは難しいことでしょう。
「何のために徳を積むの?」として、魂のステージを上げるなどということに全く理解を示さず、「自我」を太い木になるように育てて行くような気がします。
不幸に陥った時、「過去世のカルマ」という概念がないとすれば、「何で自分がこんな目に合うのか!」と怒り、絶望的になってしまうかも知れません。
心に天や神仏を描くことが出来る時、どこか「余裕」に近いものが生まれ、心が安定し幸せな未来を夢見ることも、出来る様に思えます。
それはこの世で辛い思いをしながら生きる私たち皆に、希望を与えてくれる現実でもあるのです。
多くの方々は、お墓参りや神社仏閣を訪れます。
これは心のどこかで、過去世、現世、来世の概念が、生まれて育って来た証拠だと言えます。
私は人が最も美しく在るときは、神仏の前で祈る姿のときだと思います。
他人や自分の幸せを、純粋無垢に祈るのであれば、それはその人の本当の美しさを、神仏に受け取って頂ける瞬間なのです。
その受け取って頂けた「人の想い」は、神仏によって、祈る人がいつの日か本当の幸せをつかむ道を探し当て、その道がどんなに険しくても、揺るがない勇気を与えて頂けるはずです。
この間の青森県つがる市の風景が、疲れてぼんやりしている私の心に、何度も浮かびます。
今日も画像は、つがる市の風力発電の白いブレードたちです。
今日のフィーリングは、楊 雪(ヤン・ユキ)さん(二胡演奏)の「草原情歌 (そうげんじょうか)」、エールケン氏の「無可奈何 (どうしようもない)」、宇多田ヒカルさんの「One Last Kiss ワン・ラスト・キス」かな