信仰とは何でしょう
この世では、会話の中で宗教的な香りのする言葉や、経験的なものを人に話すとき、自分自身も少し緊張することがあります。
人は恐らく宗教的な何かに引き入れられるような、少しばかりでもその恐怖と警戒心があるような気もします。
「信仰を持っていることはそれぞれの自由」であることが保証されているわけで、特に問題ないとされていますが、宗教的様々な問題が社会に浮上してきたせいか、それも仕方のないことなのかも知れません。
昔から人と食事やティータイムなどの場合に、宗教と政治の話は避けるべきと言われてきたこともあります。
それは宗教も政党支持にも、その人の心の本質が入っていて、その本質は必ずしも他の人と調和するという保証はなく、もし反対意見同士がぶつかり合うことになれば、楽しい雰囲気は保ち難く、それ以後の不和の元になる可能性もある、ということからの話でしょう。
信仰を持つということは、その人の考え方によって生じる行動にも影響が出ますし、その人の人生の道程に何らかの「制限」が掛かり、その中で生きることを良しとしている状態でもあります。
人は例えば自分の信仰の賜物のために、良いことが沢山起こった場合、本当に親切心で他人に「信仰」を提案してみることが、恐らく殆どの場合ではないかと思いますが、それでもやはり他の人の心に不安と警戒心の波紋を広げてしまうという、この社会での傾向があるように思われます。
この世に存在するいわゆる三大宗教などでは、それぞれのものの中に長い間掛かって成長してきた、思想や奇跡のような「現象」があり、とても極端な宗教では普通の人びとに拒否され、やがて淘汰される可能性が大きいでしょう。
「信仰を持つ」ということは本来その人だけの心に住む、「課題をこなす」ことであります。
そして本当の信仰とは、やはり自分の命を賭ける行為だと思います。
ひとつの「考え方」に傾倒して、その中にある心の癒やしや感じ取れる「奇跡」など、深く掘り下げていくとどの宗教でも必ず、その人の命を賭けるかどうかの問題に到達するようです。
皆幸せになりたいのは当たり前のことでしょうが、その幸せを、皆同じようには手に入れられないのがこの世です。
それは何故なのかと言えば、例えば仏教では「カルマ」が人それぞれの人生に、黒い影をもたらしたり理解しがたい現象を起こしたりして、人それぞれの「幸せ」への到達時間が、そのカルマの重さによって違うのです。
キリスト教でも「原罪」という言葉がありますが、それは人間本性を傷つけるため、その影響は子孫に伝わるものとされています。
「本当に信仰する」ということは、このことを受け入れなくてはならないのです。
この「信仰」を持ったら、自分の罪による苦しみや難儀が人と同じように解消され、「幸せになれるはずだ」と信じ続けても、そこに到達できないほどの、大きな因縁を抱えて生まれて来ている場合もあります。
それが苦しくて、万一自らの命を断つとしても、次にまたこの世に生まれて来て、同じ苦しみの経路を辿ることになると云われています。
この世に一旦生まれたら、自らに降り注ぐ苦しみや不満から逃げず、もしかすると仏や神の力もお借りしてでも、この人生を渡り切ることが、その魂が最短で本当の幸福を手に入れるための、ただひとつの道なのだと思います。
その人生を「生き切ること」が大切なのです。
カルマから来るような「大きな障害」が、その人の幸せへの扉を閉ざしていることがあるので、そんなとき「信仰」がその人の身についていないと、あまりの辛さに耐えかねてしまうこともあり、信仰を篤くする人であれば、それまでにこの世の成り立ち、人生の意味を「真理の教え」によって手に入れているため、最悪の結果からは逃れられるのではないでしょうか。
「宗教は麻薬だよ」と言う人もいます。
それは長い人生の苦しみとその現実を、「信仰から得た教え」で緩和され、生き続けて行けることがあり、その教えがないとどうにもならない精神状態を、呼んでしまうということかも知れませんが、人は生きて行かなくては何も「解決」出来ないと思います。
「信仰」が身についていないと、「理 ことわり(物事の筋道)」が理解し辛く、自分自身の命の危機にまで発展してしまう可能性があります。
「信仰」というものは、本来自分や他の人を救うためのものであると言えるでしょう。
この「信仰」」というものに対する考え方も必要かと想いますので、次回に続けたいと思います。
画像は 八戸市鮫町の岸壁です。
海が荒れているように波打って、少し恐ろしかったです。
今日のフィーリングは、島津亜矢さんの「The Rose ザ・ローズ]、リー・リトナー&デイヴ・グルーシンの「フォーレ:パヴェーヌ」、パコ・デ・ルシア氏の「アルモライマ」かな