徳を積むとはどんな事なのでしょうか
人がこの世に生まれて来るときは、すでに罪を背負っているという考え方があります。
それは、アジア方面ではカルマ(豪)と呼び、キリスト教圏では原罪と呼ぶもののようです。
仏教では「人生は苦である」という、最も基本的とされる言葉が有りますが、キリスト教の信者だった友人が、「人生を幸せに楽しく暮らしたくて、読んでみたいと思っていた仏教書の一番目に、『人生は苦である』と書いてあり、何だかがっかりした」と言われた事が有りますが、何も知らない頃の私自身、「苦しみの人生なんて生きる価値が有るの?そんなの嫌だよ」と思っていました。
それでも、人生の苦難とも言える様な大病や人間関係などと、大人になって行く過程で遭遇して来ると、とりあえず直面している「死の恐怖」から逃れる事に必死になり、わき目も降らず神仏にお祈りしたものです。
健康だったころはそれほど「命の存続」に対して興味はなかったのに、一旦「死」を身近に感じ始めてから、「死んではいられない」自分が見えてきました。
次から次へと心が揺れ動き、激しい振動を来たす毎日を生きるうちに「人生は苦である」という言葉が、ごく自然に心に入り込んで、その言葉はむしろ私と同次元にある様に感じられました。
叶わない事、触れる事さえできない様な、若かった自分の人生の限界がだんだん狭まって行くたび、今ある幸せを愛でる事が、心の救いとなりました。
人を羨んでも、心が一つの閉ざされた空間から外に出られなくなり、気が狂いそうになるほどの閉そく感に苦しみました。
そこから「この考え方はダメなんだ」と知った時、それで一つの苦しみの段階を超える事が出来たと思っていますし、そうして生きて行ってもまた違う形の苦しみに直面して、(その度に苦しみが薄れて来たために)また次の段階を越えられたのかと感じる事が出来ました。
ひとつの苦しみに直面したとき、人を傷つけずまた自分も傷付かないその道が、必ずどこかに有って、それを探す旅をしながら得た心の力が、いつか幸せのための扉を開いて行くのではないでしょうか。
人生に於いて「人に意地悪をしない」「人を傷つけない」などの言葉は、言うのは簡単ですが、自分さえ分らぬまま人を傷つけていることも有りますので、最後は「祈る事」しかありません。
どんなに勉学に励んでも技術を磨いても、最後は祈る事に帰着することになるのかも知れません。
また「徳を積もう」「徳を積もう」と考えながら、人に対して慈悲を施したり、何らかの寄付をしたりするとき、それは徳を積むこととはまた別の事になっているかも知れません。
徳を積もうとして、結局自分の方に運を引き寄せようと、欲望が発生してしまう事もあるでしょう。
とても難しい事なのです。
本当に徳を積むことは、無意識にそれが出来るようになるほどのたくさんの苦難に出くわして、それを誰のせいにもしないで、粛々とそれを越える努力をすることが一番自分の心を鍛え、やがて本当に人を慈しむ自分になった時に、初めて叶う事なのかも知れません。
そんな人が他人を思いやって、静かに行動を起こすとき、本当に「徳を積んでいる」と言えるかもしれません。
画像はクレオメ(セイヨウフウチョウソウ)です。
久しぶりに庭の隅で見つけましたが、今年綺麗な花を咲かせてくれました。
嬉しいです。
今日のフィーリングは、矢沢永吉氏の「Yes My Love イエス・マイ・ラヴ」、陣内大蔵(じんのうちたいぞう)氏の「Messy Lover メッシー・ラヴァー」、反田恭平氏、桐原宗生氏演奏の「タイスの瞑想曲」(ジュール・マスネ作曲)かな