本当の幸せを見付けるには 時間がかかることが有ります
自分が長い間何かの信仰を持っているときでも、時折他の教えに興味を抱いてしまう事は、あるのかも知れません。
「素晴らしいな」と思う人に出会って、その人が信じている宗教なり哲学なりに興味を抱いて、勉強したりその人と語り合ったとしても、それは人生の大切な経験として、自分の思想のいくらかを構成するものとなる可能性もあるでしょう。
どこからどこまでに規制線を張ることを強要する事は、他人にはできません。
人は自由に色々な本を読み、色々な人々に出会うべきだと思います。
自分と合う人、合わないと感じる人にも沢山出会うことでしょう。
その時難しい人だと思っても、話をしてみる事は大切かも知れません。
何故なら「難しい人」は、自分があまり出会ったことのない人だから、その対処が分からないのです。
それこそ実はとても大切なことだと思いますが、信じられるもの、心が求めて止まない生き方などは、きちんと心の中で守ってゆくべきかも知れません。
しかしながら信仰の問題の中で、長い間信じた神仏や宗教が有っても、もちろん他の色々な事に興味を持って良いと思いますが、避けるべきことが一つあるように思います。
例えばエス宗に入って、そこの会員名簿に名を連ねているのに、エヌ宗の人と出会って自分の問題点に対する解決法を、エヌ宗のやり方でやったとしても、成就するのは難しいかも知れません。
他宗のやり方をしてみたいなら、会員を抜けて素になってから新しいものを行う事で、効果はより大きいかも知れません。
二つの宗教、宗派にまたがって心願成就を行うのであれば、それは「謗法(ほうぼう)の罪」を指摘されることになりかねません。
(謗法とは仏法をそしる事、またはそれを願うのは無理な事の意味です。)
それぞれの宗派は、人を救わんとして、あるときは生死を掛けて修行しています。
そしてそのやり方でのみ、降りてくる奇跡が有ります。
ひとつの教団なり集団なりに名前を連ねているという事は、その人が自分でも知らないうちに、その団体から祈って頂いているはずです。
もしその人が二つの違った教団にまたがって、心願成就を行うのであれば、それはそれぞれの教団に対して大変失礼なことをしているという事です。
それはお止めになるべきことだと申し上げておきます。
それぞれの宗教、宗派に同じ心願成就時を掛けるなら、問題を早く解決したいのは分かりますが、天から「誠実でない人」という判断をされる可能性が有ります。
実のところ祈りや供養とは、即席に効果が表れるものではないと思います。
人によっては相当の時間が必要な場合もあります。
その人の人生は短い間に作られたものではなく、過去世、現世、また来世に続く道を鑑(かんが)みれば、一生をかけて取り組むべきものなのかもしれません。
信じられると思ったものが一つあったなら、一生かけてその場所で取り組む覚悟も必要かと思います。
少しの間やったことで「だめだなこれ、効果ないね」と判断するのは性急すぎると思います。
頓服薬(とんぷくやく)ではないので、信仰の問題は時間をかける覚悟が必要かも知れません。
画像は家の薔薇のつぼみです。
直径15センチくらいある、まさにロ−ズピンクの花になります。
今日のフィーリングは、森山直太朗氏の「風花(かざはな)」、押尾コータロー氏の「蜃気楼(しんきろう)かな