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瑞光天とは- about -
瑞光天とは

五寸釘の物語2


 以前、十界(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界)について書きましたが、仏教では十界の一番上に仏の存在があります。
仏とは、この世での為すべき修行を全て終えた完全無欠な存在です。
仏への道はとても遠く、修行したからと言って、簡単に到達できるものでないと言われています。
何度も生まれ変わり死に変わりして時を経て、心の刺や鋭い角が消滅し、「真理」を得た存在が仏です。
ゴーダマ・シッダールタという人間が「覚者」となり、仏陀(釈迦如来)と呼ばれることとなったのです。
 仏の心そのものに成れるとすれば、怪我や病気もその人には起こらず、髪の毛一本でも損じる事はないと言われています。
もちろん生きている身体であれば、人間としての最期もあるのですが、その魂が永く人々の心に残り、光を与え続けると言われています。
それは「久遠の仏」という事でしょう。
 私は怪我をしたまま列車の座席に座って痛みを味わっていた時、「道は本当に遠いなあ」という現実も味わっていました。
私の様に、病気で長い間苦しんでさらに怪我で、様々なものを損じたその家系の中に、まだ業を修行できていないものが多々あるのだろうと感じて居りました。
 何故仏教徒は「業」を修行しようとするのでしょうか。
それは「本当の幸福」に出逢いたいからです。
この世で六道(地獄界から天上界まで)の何処かに生まれた者は、日々常に何かの苦に悩むものです。
人間界に生まれたとしても、幸福になりたいと思っていて例えばその在りかを知っていても、そこに続いていく道がなかなか見つけられないのが人生ではないでしょうか。
あまりに苦しくて寂しくて悲しいから、空虚になり自ら死を選んでしまう事もあり得ます。
ほんのひと時「これこそ本当の幸せなのだな」ということに出逢えても、それは決して永遠に続きません。
車のフロントガラスの雨粒のように、時が経てばこの世から拭い去られ、人を深く愛したとしても必ず別れが訪れ、長い期間喪失感としての「苦しみ」を味わうことになってしまいます。
例え修行しても目前にある、人なり物なりを得たくなり、他人を傷つけたり自分自身を貶める結果となり、新たな業を重ねてしまうことも有ります。
 それは仏の教えに従うことなく、あるいはその教え自体を知らず、暮らしている事から起こる可能性があります。
仏教徒はそれを知っているから「本当の幸福」「久遠の幸福」を得たいこともあり、業を尽くそうとする修行を続けていることも有ります。
六道の輪廻を止め、次からはもう修行のための「苦しみ」を味う必要のない、時を求めて修行を続けるのです。
 仏になることは、至難の道です。
しかしそれを承知であっても、仏に近づきたいと思いながら努力することは、大いなる第一歩を踏み出すことになります。
そこには深く慈愛に満ちた、天の眼差しという光が差し込むからです。
 かなり前に優れた霊媒師をお呼びして、家のことを視てもらったことがあります。
この方は私に供養のイロハを教えて下さった、生涯の「恩師」です。
その方が「この土地は何百年も昔、あなた方と同じ姓の人が屋敷を構えて居た」と私に伝えました。
その土地に巡り巡って、同じ姓を持つ私たち家族が住み始めたのです。
その時代に住んでいた人たちが受けた「五寸釘の呪詛」であったのだと、あの「三本の釘」を見た朝に
解りました。
そしてその姓が持つ「業」を行ずる為に、そこに住み始めた私たちが、様々な事象に出会わなければならなかったのでしょう。
 この話は次回に続きます。
画像は青森県八戸市種差海岸とその周辺のハマナスたちです。
今日のフィーリングは、小田和正氏の「風のようにうたが流れていた」、エアロスミスさんの「Dream On」、サンタナ氏の「Adouma]かな