人の心を持つことは知性を持つことです
まだ冷たい風の中にも、どこか柔らかさが感じられるようになって参りました。
春の予感が所々に光を差しているようで、山の雪の風景の中にも、身構えず大気を味わえる日々が近付いているような気がしています。
それでも暖かな風の中にも、キラリと鋭く冷たいものが潜んでいる日々があり、油断していると風邪をひくこともあります。
どんなに時が流れても、毎年この季節になると「あの日」を思い出します。
「あの日」はこの世で生活していた全ての人々が、何らかの大きな衝撃に震えたはずです。
実際に被災された方々の辛さに対しては、特にあのときの映像を見るたび、今でも心を引き裂かれるような悲しみが込み上げてきます。
人は誰でもいつかこの世を離れるものですが、災害というかたちでの別れは心を深くえぐって、いつまでもあがってこない肉芽のように、少しの風の冷たさにも恐れおののくような痛みがひっそりと近付いてきます。
たとえ直接被災していなくても、あのときの、心を掻きむしられるような悲しさと、自分がそれに対して何も出来ない悔しさと情けなさの中で、身動きできなくなったことでしょう。
恐らく世界中の方々が、同じ心の痛みを味わったことでしょう。
とても辛いことでしたが、人の生きる途上にはそのようなことから何度も起き上がって、やがて他の人々を助けることが出来るようになることが、たくさんあるかも知れません。
大きな喪失感の中で「時」という薬をもらってなんとか生き抜き、やがて強く優しい心を持つことも出来るのかも知れません。
人の悲しみを理解する度合いは、その人の知性に比例すると聞いたことがあります。
しかしそれは特別なことでなく、「人の心」を普通に持っているなら、その人の辛さを理解することは出来るはずです。
すると「人の心もつ」ということは、イコール「知性を持つ」ということなのでしょう。
昨今の戦時下において、なんとか国の主権と尊厳を立て直すのに必死な人々に対して、とる態度なのかと思うほど、厳しい大国の振る舞いには驚きを感じます。
その裏には、「戦争状態に至る流れが、今まで何かのせいでおこり、それを誰かのせいにするなら弱い立場の者にする」様な時代の流れには、心が穏やかではいられなくなります。
どんな立場の人でも、今自分は、「人の心をもってそれに対処しているか」を確認してみることは、どんな時代でも、一番大切なことではないでしょうか。
例えば自分が貧乏になって来たのだから、今はたとえ人が苦しんでも死んでも、自分の懐を暖めることしか考えないのであれば、それはもはや「人の心」を持たない、「知性を持たない者」と判断されるように思えます。
国家間の問題に至るのであれば、権力を持つ人は特に「人の心を持つ」ことが、「天の心を持つ」に等しいものではないかということを、知るべきであると私は思います。
画像は青森県三戸郡名久井岳(なくいだけ)の雪に煙る様子です。
今日のフィーリングは、伍芳(ウー・ファン)さんの「葬心」、同じく「天空」、宇多田ヒカルさんの「DISTANCE ディスタンス」」かな