呪う事とは別の世界に魂を置きましょう
人はどうしても何かを叶えたい時、超自然的な存在に頼ることも有るでしょう。
石であったりアクセサリーであったり、神社仏閣や霊能者と言われる存在にも、願い事をすることが有ります。
自分自身や家族、友人や愛する人の為の祈りは、この世で生活していれば、自然に生じてくる事柄だと思います。
しかし稀に、この世の闇の中で大きな力を持つもの、つまり魔の世界に在るものに願いを掛けることの多くが、「誰かへの呪い」と考えられます。
「祈る仕事」をしている多くの方々はこれらに与しない(くみしない)はずですが、まれにそれを受け入れて展開して行く世界が、この世にはあるようです。
それがとても恐ろしい結果をもたらすことは、多くの事例で語られて来たことです。
例えば「ある信仰」を主体に信じて修行する方々には、強い守護がかかる事になっています。
その人に呪いを掛けようとか、貶めよう(おとしめよう)とするなら、何かの(正体不明な)力が、「その呪う者」に向かって行くことがあるのです。
しかもそれは「呪われた人の罪」ではありません。
音も無く呪い手に忍び寄り、その人の人生を紡ぐ糸の中に組み込まれて行きます。
すぐにその結末は出ませんが、やがて時が満ちた時、その人の一番愛する者や失いたくない存在が、その責を負わされてしまうような事があるかも知れません。
天の采配は恐ろしいものです。
「天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)」という言葉のように、自分をとらえる網など見えないのに、罪をこしとる網が綿密に仕組まれ、些細な罪も天の記帳に記されているという事でしょう。
自らが放った矢は、自らが受ける事になるということでしょうか。
この世で誰がその様な守護を天から受けているのか、私たち人間には分かりません。
それ故誰に対しても憎しみを保ち続けたり、それに留まらず、その人を苦しめるために「魔の世界の力」を借りるなら、いつの日か必ずそれを刈り取らされることになるのだと思います。
この世に生きる事に於いて、精神的にも難しい修行を強いられることが有るかも知れませんが、「呪い」とは離れたところに魂を置く努力が必要なことは、言うまでも無い事でしょう。
画像は、青森県八戸市の「八戸公園こどもの国」、冬の眠りについた「観覧車」です。
今日のフィーリングは、spi,心之介(ZIPANG OPERA ジパング オペラ)の「天照(あまてらす)」、土岐麻子さんの「エメラルド」、James Major ジェイムス マジョール氏の「Golden Hour ゴールデン アワー」かな